久々の回想録シリーズの続き。
現在の俺が在るのは過去の俺が存在したからであり、至極当然の話。
ちょいと頭ん中巻き戻してみるわ~…
1992~1993年辺りかな?高校卒業後は職人バイトしながら俺は都内を放浪してた。
楽器類や私物は中野の祖母の家に置かせてもらい、たまに夜中に帰る迷惑な孫だった(苦笑)
バイトで貯めた50万ばかりの金を握って当時の仕事を突如辞めたんだ。※今の職場ね(笑)
んで始めたのが「テキヤ」だった。先に3人の仲間が働いてて楽しそうに見えたんだわ。
もちろんテキヤ稼業は元締めの親父さんが居て、縄張りっつーのもあった。
俺は仲間に頼んで親父さんに口きいて貰ったんだ。
その親父さん暫く考えてたよ。そりゃそうだよな。若いの3人に加え、何処から来たかも分からない
長髪の髭面を突然面倒見なきゃならんてよ~(笑)
でもその後、快くオーケーしてくれたよ。嬉しかったなあ。
2日間で「大阪焼き」の作り方を覚えて3日目からは1人で賄うっつー無謀なスタート(笑)
場所はJR御茶ノ水駅前に1店、明治大学駿河台校舎付近に2店※当時の明大駿河台は学生活動家らの熱い主張が横断幕や張り紙で混沌と賑わってたな…。
そして俺は聖橋を渡った反対側の一角。
覚えてる人居るかな?当時御茶ノ水近辺で大阪焼きを食べた事のある人、やたらに実の詰まったカタ~い
大阪焼きを売ってたのは俺です(笑)…まあ後に親父さんに叱られるんだけどさ。
俺は遊んで稼いでる様なもんだったね。毎日誰かしらが遊びに来るんだ。
JUNGLEも仕事帰りかディスクユニオン帰りか知らんけど、たまに顔出してたな。まだ俺とは殆ど会話の
無い関係だったから、何を話せば良いのか分からなかった訳よ。
たまに俺からくだらねー話を振ると『くだらねーよ!』と当たり前の反応(笑)
まあ共通の仲間を交えてJUNGLEともちょくちょく顔を合わすようになり、いよいよバンド活動を開始する。
この頃はまだテープレコーダー式のMTRを愛用してて、何を血迷ったか当時の俺は歌入れまでこなしてた(笑)
ドラムマシーンでリズムトラックを作り、ベースとバッキングギターを録り最後はリードギターっつー流れ。
オリジナルの曲を2~3曲用意した。※オリジナル曲は歌入れ無し!
Iちゃん家で皆に発表し、いざスタジオへ!
順調な滑り出しだった。
何もかもが上手く行くと思っていたあの頃の俺…
次第に俺はギターを持った迷い人となるんだ…
やっぱり続く(笑)
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- 2011/11/23(水) 23:09:50|
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